綴るだけ

四半世紀の怠惰

詮索

 他人にやられるのは一向に構わないのだけど、一親等の人間に「今日はどこへ行くの」と言われたり、部屋の中を舐めるような目つきで観察されるのが大嫌いだ。

「他人にやられるのは〜」と書き出して初めて、他者は切り捨てられるからどうでもいいと思っていることに気がつく。

 小学校の頃、不都合があったり恥ずかしい場面を見られたりした人は自分の世界イコールこの世界から消えてくれるものだと思っていた。自分の見えている世界以外は静止しているものだと信じていた。地動説のように信じていたわけではなくて、どちらでもいいならと自分を中心に世界がまわっていることにしていた、心の奥底では。そう信じているほうが気楽であるのにそう思えなくなってしまったのは結構最近だ。自分の知らない世界が大嫌いなのに自分の知らない世界がこんなにあるのはおかしい、そもそも永遠に理解できないような、潜在意識でも理解できないような、数学的な分野が死ぬほど存在しているこれを自分に創れたわけがない、と思ったのがきっかけだったと思う。なんとなく思い出したのが株価だったから、自分の知らない世界の代表格が株価なのかもしれない。

 小さい頃に“決めた”自分の特殊能力のうちのもうひとつには「起こってほしくない出来事を止められる」というものがあり、これは今でもそこそこ信頼している。行きたくない法事や遠足は取り止めになった。

 書いて落ち着くのは良い癖だと思う。驚いたような引いたような鼻で笑うようなおかしな顔で趣味を小馬鹿にされたことをきっともう忘れられない。好きなものを、否定されないまでも見下した顔で笑われてきたからこんなになってしまったのに。

 古傷が疼く。

 この地が自分にとって安寧の地であるようにと願い続けてきたけれどもうだめだ。

 どうにかして出て行かないと永遠に癒えない。あるいは永遠に癒えないまま生きるほうが賢いのだろうか。そうかもしれない。見えない糸で縛られ、見えない針で刺されるよりも、目に見える縄で縛られたほうが幸せだ。

 今キーボードに手を載せていたことをありがたく思う。おかげで頬は濡れていない。