綴るだけ

四半世紀の怠惰

自分たちのために

 弔いは、本人のためではなく、その隣にいた者のためにあるらしい。

 どうして一番中心にいる人物ではなくその周りばかりを「当事者」として労うのだろう。なぜ自分側の人間ばかりを気遣わないといけないのだろう。

 

 弔事を眺めてきた。都市伝説だと思っていた「遺された者のための儀式」が本当に「遺された者」のためのものだったことに驚く。過剰な装飾はすべて「遺された者」の気持ちを晴らすためのものだった。と、執り行った専門者側が言っていた。これは宗教によってだいぶ違ったりするのだろうか。少なくとも自分の価値観や今まで見てきたものの考え方とは合わなくて驚いた。

 弔事に限らず、「本人が救われる→周りが安心する」だけが健康的な流れだと考えているから、「会場にいる人たちに幸あれ」は内心かなり戸惑った。やはり親しんできた宗教の違いか。

 気持ちは浄化された。「本人に届いた結果、お零れの救いが降ってきた」って思ったら腑に落ちた。腑に落ちたし未燃焼な気持ちは消えたけど、でもやっぱり「これでいいのか?」と思う。何がって、本人に届きますようになどと思わずに形式に沿って弔っている人たちの気持ちが。

 会場にいて見ている人たちのためのものならば形に拘るのも当たり前なのだという知見を得た。今更すぎる発見。祈るのがメインなのではなく祈る場を演出するのがメインだったのか、と。

 

 自分の家は宗教を持っているし、それを自分の意志で支持もしているけれど、自己流の価値観(特に死生観)が強すぎていつからか信仰しているとは言えなくなってしまった。正直、俺が宗教だ、俺が政治だ、俺が法律(というか法書)だと思っていなくもない。自分の全てを活字に落とし込みたい。不可能だけど。遺したくないけど。今書いてるし、最悪だ。

 

 体調は最低以上平常未満を揺らめいている。